1.海外勤務を終え帰国し・・・自己啓発の必要性を自覚
私は大学を卒業し住友銀行に就職し、海外店を含め主に国際部門で長く働きました。
その海外勤務はスペインへの留学から始まりました。この写真はマドリードの下宿で撮ったもので、私にサービスしてくれている人は、下宿の女主人で、座っている女性はアメリカからの留学生です。
さて私は1年間の留学を終え、東京で外国為替のディーラーとして3年間働きました。憧れていた仕事で、毎日、ディーリングルームに行くのが楽しみなほどでした。中東での出来事が為替相場に直結して相場が乱高下する時代でした。ドル相場が1日に10円近く動くこともありました。
ディーリングルームでの勤務の後、アメリカのサンフランシスコに赴任し、海外勤務が始まりました。平日は朝の8時から夜遅くまで働き、週末は取引先とのゴルフという生活でしたが、大手銀行の海外店勤務であり、それだけで満足でした。3年半ほどサンフランシスコに駐在した後に、ブラジル勤務を命じられました。スペイン語はまだ覚えていましたが、ブラジルはポルトガル語です。銀行の人事では、ほとんど同じで大丈夫という発想ですが、かなり違います。サンパウロに行き、スペイン語を話すと、あまり通じません。言葉の問題も大変でしたが、それよりも当時のブラジルは、月間インフレが30%を超え、銀行が貸し出す時の金利は複利で年率に換算することから、1万%を超えるという、普通の人にはなかなか理解できない世界でした。ブラジルで毎日起こる驚くような出来事は、アメリカでは味わうことのできないものでした。金融マーケットの動きはすさまじく、まるでロケットに乗っているような気分で、その状況をポルトガル語で理解しなければならず苦労も多かったですが、デノミネーションの実施を現場で体験をすることもでき、楽しく元気に4年半のブラジル勤務を無事終えました。
帰国して、数年間ほどの本部勤務の後に、国内店の課長に就任しました。しかし、海外で苦労して得た知識は国内では役に立たないものばかりで、学び直す必要があることを自覚しました。私は公的資格を取得することを通じて知識を獲得しようと考えました。
2.自己啓発を開始
私はディーリングルーム、アメリカ、ブラジルにおいて、社会人としてそれなりに勉強はしていたつもりです。しかし明確な目標とノルマを自分に課して自己啓発を行ったことはありませんでした。アメリカとブラジルに通算して8年滞在しており、日本で同僚のレベルに追いつくのは容易ではないと自覚しました。いろいろと悩んだ末に、勉強の成果が周囲の人からも分かる公的資格を取ることを選びました。幸いなことにいくつかの国家資格の取得を勤務していた銀行も奨励していました。社会人が自己啓発として取る公的資格の登竜門は、「宅建」だと思います。当時の合格率は10%以下で社会人の場合、1年は必要とされていましたが、試験日まで6ヶ月を切っていました。
3.宅建(宅地建物取引士)試験に挑戦
宅建資格を取ることで、銀行員が必要とする知識を得ることができ、勤務していた銀行も奨励金(実際は図書券)を出していて、好都合と考えました。明確な目標を立てて勉強をすることができます。しかし勉強する時間的余裕がなく、自信はありません。当時41歳でした。まず「この本だけで合格する」というキャッチフレーズの本を1セット(4分冊)を買い、平日の夜、週末、通勤時間も使い読み込みました。数か月で一通り理解できたので、大原簿記学校の模試を受けました。結果は50点ほどで、厳しい状況でした。そこで勤務時間以外は全て宅建の勉強にあて、トイレには、土地の用途別の建ぺい率など暗記する表を貼り、必死に勉強しました。この時にいまさらながら、理解していることを速くアウトプットすることが試験では求められることを再認識しました。競争相手は1年以上も勉強を続けている人達でした。2回目、3回目の模試で、点数は上昇しましたが、まだ合格圏外でした。
模試を受けている時に、一つの傾向があることに偶然と気が付きました。回りの人が模試問題の冊子の頁をめくる音が聞こえますが、私より速いのです。私はどうも日本語を読むスピードが遅いようです。海外で日本語を読む機会がなかったことが影響しているのか、速く読めないのです。それが証拠に、模試によって、頁数が多少異なりますが、私は頁数が多い時は点数が悪いのです。試験本番の1週間前の模試で、点数は合格ラインすれすれのところに達しました。
試験当日は大学を卒業して以来の試験で、鉛筆を持つ手が本当に震えてしまいました。ページ数は例年比、少な目でした。後日、正解が発表となりました。自己採点すると合否ライン上で、自分の回答を正確に記憶していない部分もあり、合否は時の運という結果となりました。一問の正解、不正解が結果に影響するという状況でしたが、私が正解した問題が不適切問題として、全員に点数が与えられると発表され、釈然としなかったことを覚えています。
4.宅建の試験結果
宅建試験の結果発表の前日に埼玉県から合格を前提としたような書面が来ました。翌日の合否結果は合格でした。通った予備校から連絡があり新聞記事がFAXで送信されてきました。記事の左下に私の名前があります。
宅建の試験に合格したことを勤務していた銀行の上司に報告すると予想以上に誉めてくれました。そして報奨金(数千円の図書券)も貰いました。銀行の支店において、不動産のことを知っていると多少評価され、融資課員が担保の不動産について質問してきたことがありました。自己啓発の直接的ないし間接的な効果を実感することができました。このことに味を占め、公的資格の取得という手段を利用して、さらに自己啓発に励もうと考えました。銀行の支店の取引先は中小企業が中心であることから、中小企業診断士という資格とそれに類似の販売士1級という資格に注目し、どちらが良いか悩みました。
5.中小企業診断士試験に挑戦
中小企業診断士資格か販売士1級に挑戦するかかなり迷いました。二つの資格の試験科目はほとんど同じで銀行の国内支店の職員に必要な知識を双方とも網羅しています。違いは、診断士の方がやや世間に認知されていることと、販売士試験は不合格となった場合に、次回試験において、合格科目の受験を免除されることでした。結局、中小企業診断士資格の取得を目指して、勉強を開始しました。次回の一次試験まで1年ほどでした。今度は宅建の時と違い、時間があると思いました。しかし、大原簿記学校に週末に通い勉強を始めると試験科目が8科目もあり、試験の範囲も広くかなり大変であることが分かりました。
それでも銀行の仕事に直接役立つ内容で、資格取得に向かって勉強を続けることができました。試験の前に受けた大原簿記学校の模擬試験では合格範囲に十分入ることができました。本番の試験は二日で4科目づつ行われ、体力勝負になるとのことでした。冷房のない暑い教室での試験で、初日は順調でしたが、二日目には体力が続かず、最後の科目の店舗設計に関する試験で、集中力がなくなってしまったことを覚えています。模範解答を見た時に、冷蔵が必要なケーキの商品棚の設計図に冷蔵機能を加えていないという初歩的なミスを犯したことに気が付きました。通った予備校の先生に私が合格しないと同校の合格率に影響するなどと言われてしまいました。
6.中小企業診断士の試験結果
中小企業診断士の試験結果は不合格でした。最後の科目の点数がかなり低く不合格(足切り)となってしまったようです。総合点は合格ラインを越えていたはずです。この結果にはかなりがっかりしました。次の手がないという心理状態でした。来年再度挑戦しても合格の保証はありません。販売士1級試験であれば合格科目は免除されますが、中小企業診断士の場合は全部やり直しとなります。社会人の場合は自己啓発の成果の結果が求められるので、目標の設定が大事であることを痛感しました。再挑戦するか、販売士1級に変更するか悩んでいたところ、たまたま社会人を対象とした大学院が開設されていることを知りました。
7.社会人大学院への入学を検討
社会人として自己啓発をどのように続けて行くか悩んでいる時に、たまたま多摩大学が社会人を対象とした経営学の修士コース(MBA)を最近開設したことを新聞記事で知りました。記事には週末と夜間のみで修了単位が取得できると書いてありました。私は大学を卒業する時に兄が大学院に入っており、大学院への進学を検討したものの当時の日本では大企業への就職が定番となっており、あきらめた経緯がありました。大学院への進学は憧れていた世界に入るようにも感じました。当時(1995年)は社会人を受け入れる大学院は稀で、多摩大学大学院は社会人コースとして日本の草分け的存在でした。授業料はかなり高いですが、大学院に入って経営学を学び直すことを決心して、受験したところ合格しました。次に勤務している銀行に了解を得る必要を感じ、親しくしていた他の支店の同期の人に意見を聞きました。するとかなり意外な返事があり驚きました。彼によると何年か前に起こった事例として、高校卒の女子職員が通信教育の大学への進学を打診したところ、銀行はかなり否定的で、結局、他言せず勉強することを条件に認めたとのことでした。人事体系として前提としていないということが原因かと思われました。よって、大学院の進学は慎重にした方が良いというのが彼の意見でした。私はかなり悩みました。私は既に42歳になっていて、銀行の都心店の副支店長になっていました。そもそも自己啓発が勤務に悪い影響を与えるのでは、本末転倒となります。そこで私が取った行動について次に書きます。
8.大学院への入学を勤務先に打診
大学院の修士課程の試験に合格したものの勤務先に了解が得られるのかという問題に直面しました。私は既に若手銀行員ではなく、支店の幹部職員でした。しかし自己啓発の必要性を感じていたので、思い切って上司の支店長に相談することとしました。仕事には厳しい上司でしたが、私の希望を親身になって聞いて下さり、さらに人事部にも連絡してくださいました。上司によると人事部の職員は大学院入学希望者が若手職員ではなく、副支店長と知ってかなり驚いたそうです。当時はバブルがはじけた後で銀行を取り巻く環境が大きく変化し人事政策も見直される時期となっていました。そして一週間ほど経って、人事部で検討の結果、今後は行員は各自の判断で自己啓発を行う必要があるので、大学院で勉強するようにとの結論が出た旨、上司より知らされました。そのような回答を得るに至った上司の判断と配慮には今でも感謝しています。今から考えると、研究者としての活動が、この時に始まったのでした。
当時の多摩大学大学院は、東京の多摩地区のキャンパスで授業が行われていました。
自宅から2時間以上かかりましたが、講義内容は新鮮で、多彩な職種の”同級生”と交流することができ、充実した”キャンパスライフ”を満喫することができました。研究テーマには、仕事に役立つ領域の中から、時価会計をテーマとして選びました。まだあまり認知されていない時価会計に関する論文を仕上げて、修士課程を2年で無事修了することができました。
9.博士課程への進学を検討したが・・
勤務先の上司の配慮もあり無事、修士課程(MBA)を修了することができました。研究テーマを時価会計にしたことから、仕事との接点も当然多く、取引先の財務状況を分析することができるようになったと感じました。さらに同大学院の博士課程への進学の許可を得て、進学を検討して博士論文執筆を検討しました。先輩の博士論文を見ると、修士論文とはかなりレベルが違い、緻密な調査と高度な理論構築が必要であることを知りました。さらに勤務先が銀行の支店から本店の国際部に異動となり、会計とはあまり接点がなくなってしまいました。当時はインターネットもあまり普及しておらず、まだ社会人大学院に関する情報を得ることは容易ではありませんでした。私はかなり大胆に文部科学省の大学院の新設を担当する部署に電話をかけて、中央大学大学院が国際私法(国際企業関係法)の修士課程を新設し、社会人枠を設けるというホットな情報を得て、すぐに受験しました。私は法学部出身ではありませんでしたが、運よく合格することができました。そのことから、多摩大大学院博士課程と中大大学院修士課程の二つの選択肢を得ました。ここでもかなり悩みましたが、博士論文は時期尚早であると感じ、さらに国際私法の研究は国際部における仕事との接点もあるはずで、勤務先の理解を得やすいことと、研究に役立つ情報も仕事柄入手できるように思い、中大大学院修士課程で勉強を続けることとしました。
国際部に転勤となってから、上司の部長に社会人大学院の修士課程で会計の勉強していて、次は中大大学院に移って国際私法の勉強を週末に行うと申し出たところ、今度は比較的スムーズに人事部の了解も得ることができました。しかし、社会人が大学院で勉強するにはかなりの覚悟が必要で、多摩大大学院の修了式の日に修了証を手に持ったまま、中大大学院の指導教授との初めての面接に向かうという過密スケジュールとなった日もありました。その日は、土曜日でしたが、それでも銀行員が大学院のキャンパスをハシゴをするようなもので、我ながらひどいなと思いました。
10.中央大学大学院修士課程で国際私法を学ぶ
勤務先の了解も得ることができ、中央大学大学院の法学研究科修士課程に進学しました。当時(1998年)はまだまだ社会人大学院生というのは少なく、『仕事の教室』という雑誌が私のことを記事(写真)として取り上げてくれました。私の背景に写っているのは八王子キャンパスの中央に位置する階段です。
中央大学大学院は多摩大学大学院とはかなり雰囲気が異なり驚きました。多摩大では最新の経営学の知識を吸収でき、学生同士の交流も盛んで、職種の異なる級友から新鮮な話を聞くことができました。中大の法学研究科は伝統があり、教授陣も研究一筋という人が多く、学生同士の交流はほとんどなく、院生は特定の教授の研究室に配属となり、他の研究室の情報は入らないという状況でした。伝統的な大学の研究スタイルに接することができ、法学研究の姿を知ることができました。通学は週末に八王子キャンパスに行き、平日の夜間に一日だけお茶の水キャンパスに通いました。
研究テーマは自分の経験が少しは生かせ興味が持てる商業信用状(銀行が発行して貿易に広く利用されている保証書の一種)としました。この信用状の取引において、銀行では当然のように信用状統一規則というルールに基づいて、条件や文言の解釈が行われます。しかし、この統一規則は、法律上は商慣習と理解されていて、興味深い解釈・議論がなされています。簡単に言うと、商慣習も取引関係者が守るできルールであり、裁判となっても効力を有すると解釈されています。大学院で国際取引に関する研究を行っていた甲斐があり、たまたま勤務していた銀行の会議において、法的な議論になった時に、蓄積していた知識に基づいて説明を行ったことがありました。会議後に部屋から出た時に、同僚より、「さっきは弁護士みたいだった」と声を掛けられたことがありました。社会人が大学院で勉強する場合は、仕事との接点が、勤務にも研究にも欠かせないことを実感する瞬間でした。
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11.中央大学大学院の博士課程に進学
勤務先の了解を得て大学院に通ったこともあり、修士課程は無事に修了しました。銀行の国際部の仕事は、国際私法との接点もあることから、同大学院の博士課程に進学することとしました。そして大学が発行する研究論文集の研究年報に「国際訴訟における援用可能統一規則」というタイトルの論文を発表しました(下記の左)。
さらに「国際開発金融機関の貸付協定の『準拠法』条項についてー世界銀行型から欧州復興開発銀行型へー」というタイトルの論文を指導教授と共同執筆することができました(上記の右)。同論文作成のための研究にあまり貢献できなかったにも拘わらず、同指導教授に私を共著者として扱って頂き、申し訳なく思いました。同時に研究者になったという自覚を持つようにもなりました。同指導教授より博士論文の執筆を始めるように言われましたが、博士論文のハードルは高く、躊躇していました。
丁度そのころ、東大の薬学部教授に就任した兄が研究成果の実践を目的とした起業を検討していて、弟の私が銀行員で会計と法の知識を多少は保有していたことから、実務面に関する相談を受けるようになっていました。大学発ベンチャー企業はまだまれで、東大でも明確なルールが整備されていない時代でした。そのことから知的財産関係の法律・考え方を確認する必要がありました。法律を研究していたことから、知的財産の所有権、合理的で合法的な産学連携の方法の研究に興味が移って行きました。
12.ベンチャー企業を創業、産学連携を研究
国際私法の研究を大学院の博士課程でする傍ら、ベンチャー企業にも興味を持っていたことから、2000年ころより、週末ないし夜間の勤務時間外に、大学の研究成果を事業化するための方法を兄と意見交換するようになっていました。大学発ベンチャー企業など珍しい時代で、まさに生きた研究ができる実感がありました。そして2000年12月に、父親に社長になってもらい、(有)ゲノム創薬研究所というペーパーカンパニーを設立しました。兄は国立大学の教授で、私は銀行員という立場から、共に大学と銀行の兼業禁止規定に触れないように、あくまで出資者という立場を取りました。設立の前から大手製薬会社より大型の共同研究の申込があり、設立と同時に4人の技術者を派遣会社経由で雇用しました。当時はこのような事業活動の前例がなく、常に問題がないことを確認する必要がありましたが、規則がない以上、問題がないことを確認することは容易ではありませんでした。そのことから、兄と連名で論文「新しい産学共同研究モデルによるゲノム創薬事業の試み」などを発表したり、学会で”産学連携のあり方”を発表することで問題がないことを確認することとなりました。このあたりから、私の研究活動はビジネスと一体となりました。
13.日米の税理士資格
①日本の税理士資格取得
2000年に税理士資格を取得することができました。税理士資格取得には一部科目の免除制度があります。この制度を利用して修士論文「信用状取引紛争の訴訟判決の分析と仲裁の制度的利用の可能性の一考察」などを税務当局に提出して審査の結果、税理士の登録資格を取得しました。当時の審査は論文以外にもいくつかの要件があり、申請書の提出自体も簡単ではありませんでした。さらに資格取得には会計実務の経験が3年必要で、銀行員の場合は融資課・外国課における融資担当の経験が充当できましたが、その証明書には頭取の実印など公的な印が税理士会より要求されました。この証明書の作成が大変で、税理士会の担当によると銀行員の中にはあきらめる人もいるようです。私の場合は、勤務していた銀行の人事部長の特別な計らいで、作成することができました。いままで多くの人に助けてもらっています。このようにして私は銀行に勤務している時に税理士取得できましたが、現役で取得をするのは勤務していた銀行で私が第1号であると人事部の人から聞かされました。
②米国の税理士資格取得に挑戦
日本の税理士資格取得の手続き中に、米国の税理士資格(Enrolled Agent=EA) にもチャレンジしました。銀行の国際部に所属し、大学院で国際私法を勉強しており、仕事と大学院の研究の双方に役立つと判断しました。ANJOインターナショナルという資格学校の通信教育を受けて半年ほど勉強しました。初めは英語が難しく手こずりましたが、専門用語を覚えることにより、英語のテキストを理解できるようになりました。試験は渋谷の国連大学で2日間行われ、アメリカ人らしき受験者も多くいて、国際的でした。結果はつぎの通りでした。
試験は 4科目に分かれています。Part 1 個人所得税 得点85(合格ライン105)、Part 2 個人事業、パートナーシップ税 得点129(105)、Part 3 法人税など 得点98(87)、Part 4 倫理、罰則 得点61(72)、合計得点373(369)と合計点は合格ラインを上回りましたが、日本と制度的に大きく異なるPart 1 と Part 4 の結果が悪く不合格となりました。米国の税制度の概要を理解できた気になり、いずれ再チャレンジしようと思い、現在に至っています。
ところでこの試験を通じて、日本と米国の文化の違いを再認識しました。この試験は米国の税務当局(IRS)が実施する正式な国家資格の試験です。ところが試験問題にミスが多く、試験結果が3回も修正されました。上に貼ったレターは3回目の”修正版”で、左上の矢印のところに”CORRECTED LETTER”と記入されています。日本の税理士試験に、もしこのようなミスがあると新聞ざたとなります。アメリカの銀行に勤務したことがありますが、銀行の支店においても同様です。入金ミスなどがあっても、銀行員は特に謝らず「私が見つけてあげました」などと平気で言います。これに対して、客は怒ったりせずに、お礼を言います。アメリカではミスは修正すれば良いと考えられているようです。そのことは失敗をあまり恐れず、チャレンジすることに繋がっているように思います。アメリカのベンチャー企業の近年の興隆はこの精神によるのではないでしょうか。
14.法学の研究が評価され中堅企業の法務部長に
大学院で法学の論文を執筆したことから、銀行を準定年退職後に中堅企業の法務部長に就任することができました。法学の勉強は机の上で理論の構築を検証するものですが、実務の世界では頻繁に意外性のある事件が現実に起こり、その現場に遭遇する場合もあります。例えば、”善意の第三者”からある特異な取引において、支払を請求され支払ったことがあり、これが法律の本に書かれているあの”善意の第三者”かと変に納得したことがあります。社会人の勉強は仕事と関係していることを学ぶことが効率が良いと同時に、知識や公的資格を得ることで新しい仕事を見つけることもでき、双方が相乗効果を生み出すことを強く認識しました。法務部長という立場から、知的財産(特許)に関係する実務も行ったことが、その後の特許法の研究に大いに役立つこととなりました。
15.特許法の論文執筆に挑む
週末に創業したベンチャー企業の経営に出資者として関わり、平日は中堅企業の法務部長でした。また中央大学の法学科の博士課程の社会人学生という立場も持っていました。国際私法の研究者でしたが、指導教授の了解を得て、特許法の研究を始めてしまいました。私はすでに大学発ベンチャーの関係者として登壇して、産学連携の在り方について発表する機会を与えられていました。当時は大学発のベンチャー企業が稀であったことから、そのようなこととなった次第です。私が参加した講演会の締めを行った東京大学の副学長が論文のテーマのヒントを与えてくれました。副学長によると、教員の発明は教員に帰属するという議論の結論は知っているが、大学の研究は大学院生によって支えられている。彼らの発明の帰属の議論は今まで全くされていない。将来大きな問題が起こるので、だれか研究してほしいという内容でした。当時、私は国際私法の博士課程の学生でしたが、「学生の発明の帰属問題」のテーマは社会の要請があるもので、自分が研究しようとすぐに決めました。しかし単独で、そのような研究をした経験はなく、議論の構築ができず困ってしまいました。当時は学生の発明は①大学に帰属する②指導教員に帰属する③学生に帰属するという3つの議論があり、混沌としていました。それでも国際私法の議論の仕方を参考に、良いアイデア思いつきました。過去に文部省が中心になって決めた教員の発明が教員に帰属するという議論を延長すれば、学生の帰属についても結論が出せるというものです。つまり教員は授業を行う対価を得ているが、特許を取得するほどの高度な研究に対する対価は得ていないので、特許は教員に帰属するという議論の延長です。私の主張は、学生は無給であり研究の対価を得ていないので、学生の特許は学生に帰属するという考え方です。後から考えれば、当然の結論ですが、それでも論文完成に1年位かかりました。最後に知り合いの知的財産に詳しい弁護士の先生に見てもらい、修正作業をし、さらに専門誌の編集者に論文を紹介していただきました。そして『パテント』という弁理士協会の機関誌に掲載してもらうことができました。学生の発明は学生に帰属するという考えの流れを学会で作ることができたと自負しています。論文の全文:学生の発明と特許権に関する一考察 (jpaa.or.jp) 下記左。
そして2004年に東京大学産学連携本部が発行した『産学連携ハンドブック』(上記右)に、「学生の発明の扱いについては、関水信和『学生の発明と特許権に関する一考察』(パテント2003年Vol.56 No.10 27頁以下)参照」と記載されました。
16.脱サラを決心
創業した(有)ゲノム創薬研究所は、大手製薬会社との共同研究を行っており、ベンチャーキャピタルからの出資を得ることができれば急成長が期待できると私は考えるようになりました。勤務後の夜間に複数のベンチャーキャピタルと交渉の末、大手ベンチャーキャピタルが前向きに検討するとのことでした。そして最後に共同創業者である兄と二人で、2005年に同社役員の前でプレゼンをしたところ、将来上場するほどの成長力が期待できるとの評価を得ることができました。出資金で研究員を増員し、会社は株式会社に組織替えとなり、私は脱サラを決心して、会社の経営に専念することとなりました(同社HP= (genome-pharm.jp))。大学への説明の関係から社長は父親の知人にお願いし、私は取締役にも就任せず、アントレプレナーという肩書となりました。法務部長として勤務していた中堅企業の経営陣の方々、紹介者の銀行の人事関係の方々に事情を説明し、了解を頂きました。創業した会社は出資金を得て、製薬会社からの共同研究費と併せて、給与を含めた運転資金を4-5年分は確保していたので、バクチ的な行動ではなかったと思っています。しかし、法務部長として勤務していた会社は安定した経営ができており、脱サラして一定のリスクを取ったことに違いはないと思います。
17.東京大学大学院工学系研究科MOTコースに入学
脱サラした以上は、ベンチャー企業の経営に専念する必要がありました。ベンチャー企業の経営を含めた「技術経営」を社会人に教える東大大学院の新設のMOTコースへの入学が、その時点で既に許可されており、そのことが脱サラを決心できた要因の一つだったように思います。多摩大大学院、中央大学大学院に入学した時には、仕事に役立つように研究テーマを選んでいましたが、この頃になると仕事と大学院のコース選択が完全に一体となっていました。中央大学大学院で国際私法の博士論文を執筆することは断念しました。中小企業診断士の資格取得を断念したことに続き、自己啓発を始めて2度目の断念でした。社会人の自己啓発は断念したり、方向転換することがとても大事です。言うならば、努力は自然体の110%くらいにしておいて、150%の努力は深追いになると思っています。
脱サラしたことにより、共同研究などの資金獲得は必死でしたが、大学院の夜間のMOTコースには、さほど無理なく通学することができました。曜日により駒場キャンパスに行ったり、本郷キャンパス(工学部2号館=下の写真)で授業を受けたりでした。
学生は大手企業の中堅技術者が多く、分野によっては教授、教員陣よりも部分的に詳しい人がいて、心地よい緊張感がありました。コンピューターのプログラム関連の授業など全く理解できないものもあり、”同級生”に答えを教えてもらってレポートをなんとか仕上げ、単位を取得したような科目もありました。しかしなんとか無事に修了単位を取得することができ、ベンチャー企業経営に役立つ勉強をすることができました。
18.千葉商科大学大学院の博士課程に進学
MOTコースで技術経営を勉強することができ、つぎはいよいよ博士論文を書き始めたいと思うようになりました。たまたま電車の中で読んでいた新聞に、千葉商科大学大学院の博士課程が社会人院生を募集するとの広告が目に留まりました。当時は社会人を積極的に受け入れる博士課程はほとんどありませんでした。慶応大学で経済政策の教鞭を取られ、長く政府税制調査会会長を務められた故・加藤寛先生が学長として、創設された社会人用の博士課程でした。私は加藤先生を慶応のキャンパスで昔お見掛けしたような記憶がありました。少し悩みましたが、千葉商大の博士課程にベンチャー企業に関連する研究領域を持った教授が複数いることなどを確認し、入学することとしました。私はベンチャー企業の経営に携わり、関連する論文や学会発表を行っていて、博士論文を書く大学院を探していたのです。2006年4月8日の大学院の入学式の時の記念写真を下に貼ります。
加藤先生が入学式で開口一番いきなり「天は人の上に人を作らず・・」と福沢諭吉先生の言葉を引用されたのを今でも覚えています。創立者も慶応出身で、実学を目指す学風を感じました。さて、私は入学時点で、ベンチャー企業の経営者であり、下記のような論文ないし学会発表を既にしていました。
産学連携あるいはベンチャー企業経営に関する経験や研究成果を博士論文に昇華させるために入学しました。すぐに論文構想の検討をするゼミに参加しました。院生が論文の構想を説明すると教授陣から問題点の指摘がされました。私が、研究していた産学連携について説明すると、さらなる問題提起と具体的な解決策の提案と効果の証明が必要という趣旨の指摘がされたと記憶しています。何度かプレゼンをする内に、産学連携ないしベンチャー企業の経営はいかにすべきかなどの議論から解決策を提案し、その効果を証明し、博士論文にすることは容易でないと考えるようになりました。文献を調査すると、ベンチャー企業にとっての特許戦略は従来日本では全くと言ってよいほど議論されていないことに気が付きました。出版されている書籍に、経営しているベンチャー企業の特許戦略で参考となる記述がないことは知っていましたが、論文などもないということに気が付きました。そこで欧米の英文資料を探すと、かなり参考となる書籍とインターネット上の資料を見つけることができました。文献の分析から手をつけることとしました。
具体的には、venture firm, start-up, patentなどのキーワードで検索して、リストアップされる文献の中から、ベンチャー企業の特許戦略を記述している計8点の書籍と論文、ネット公開資料を選び出しました。英文で書かれており、当初は少し手間取りましたが、少しづつスムーズに読みすすめるようになりました。そこには日本には存在していないような緻密な分析が行われていました。例えば、どのようなサイズの企業で何件程度の特許を保有している会社がどのような確率で特許侵害で訴訟に巻き込まれるのかというものでした。日本では見たことのないデータと議論です。この欧米文献の分析結果を研究ノートとして、院生用の雑誌で発表しました。この作業で、博士論文の素材を増やすことができました。
次に、創業したベンチャー企業が開発した技術について、特許出願していたことから、知的財産に関する実務的な知見に基づいて、弁理士、大学の産学連携部署の責任者と議論を重ね、資金力のないベンチャー企業が利用すべき策として、「国内優先権」、「先使用権」、「判定制度」の三つが費用対効果が高く積極的に利用されるべきとの考え方を構築しました。
創業したベンチャー企業は、本業の「薬剤の候補物質の開発」の他に、運転資金獲得のために「機能性食品の開発」の二つを同時並行して行い、高度な研究と事業継続の両方を続けていました。この経営方針は、「技術系ベンチャー企業の経営戦略」として、論文のテーマにならないか、指導教授に相談したところ、同教授の調査により公表されている資料などに前例がなく、ユニークなテーマになるはずとの助言を頂きました。このベンチャー企業は複数の事業を行い、技術と資金の双方の獲得を目指すという経営戦略について、多くのベンチャー企業の経営者、大学の産学連携部署、特許関係者などの意見、助言を分析して資料を作成しました。この調査を行っていたタイミングで、たまたま2008年10月にオーストリア政府に招聘されて、日本のベンチャー企業のアントレプレナーを代表して「日本の産学連携のあり方と実験動物としてのカイコ幼虫のあり方」という講演をオーストリア各地で行う機会がありました。ヨーロッパ、アメリカのベンチャー企業関係者、投資家、大学の産学連携部署関係者、製薬会社関係者など約50人の参加があり、3都市で講演と併せて、「ベンチャー企業は二つの事業を行うべき」という議論を行い、さらに会場でアンケート調査を行いました。その調査結果はとても論文執筆に役立つもので、私の考え方を支持する意見が多く、中に何人か、二つの事業は同じプラットフォームに属している必要がある等という条件付きで、賛成という意見もありました。因みに、私が創業したベンチャー企業の二つの事業は、カイコ幼虫を実験動物として利用するという世界でも類例のない同じプラットフォーム(技術)に立脚したもので、その条件を満たしていました。下の写真はオーストリアの講演会場で撮影したものです。
上記は、日本の大学発ベンチャー企業は資金調達に恵まれていないことから、運転資金を複数の事業から確保すべきを示したチャートで、講演会場で利用したものです。
オーストリアの帰路、ベルリン工科大学にて、大学の産学連携部署の責任者と知的財産の取り扱いについて議論を重ねました。
上記のようにして、いくつかの小論文と構築した新しい考え方を下記4つの柱に纏めて、「産学連携とベンチャー企業の知的財産戦略」という博士論文を仕上げることができました。
1.日本の産学連携の展開
2.大学で知的財産を生む戦略
3.ベンチャー企業の知的財産を守る戦略
4.大学発のベンチャー企業の知的財産を育てる戦略
私の場合、指導教授陣、弁護士、弁理士、大学の産学連携部署などの多くの方々のご指導とご協力のお陰で3年という短期間で論文を仕上げることができました。またオーストリア政府に招聘されて各地で講演でき、さらに会場でアンケート調査をすることを許してくださるなどいろいろとご配慮頂いた同政府の在日商務部の皆様のお陰で、貴重な調査を行うことができました。
19.通信制大学を三回卒業
私は、博士課程で博士号を取得した後に、通信制大学を3回卒業(含む見込み)しました。通信制大学は自分の生活パターンに合わせて勉強できるし、学費がとても安く、大いにお薦めです。別メニューの「トピック」→「通信制大学」に記事を“投稿”します。そこにコメントを書いてください。